東北☆家族
矢野顕子さん『東北☆家族おともだちソング』創作話

2012年9月6日。
石巻で『矢野顕子と話そう会』を開催

いよいよ迎えた当日。矢野顕子さんとマネージャー、スタッフ1名を仙台駅にて迎えました。そのまま、石巻のライブハウス『N'S SQURE』を目指して、走ること約1時間30分。車中でシオサカは、矢野さんがなぜこの計画にのってくださったのか、はじめて直接、聞くこととなりました。

実は矢野さんは、2001年に起きた911(アメリカ同時多発テロ)を現場から2㎞圏内のご自宅で体験されていました。もうもうと上がる煙、サイレン、人々の叫び声、辺り一帯を覆い尽くす不快な臭い……その模様は今も強く脳裏に焼き付いていると言います。

その後、日本に帰国した際、彼女はたくさんのマスコミから911について聞かれましたが、口を閉ざしてしまったとか。自分が住む大好きな街が破壊された苦しみを抱えながら、当事者の思いをまったく理解できない様子の日本のマスコミの質問に対応するのは、とても難しかったそうです。

「私は家や家族を失ったわけではないけれど、それでも深く傷ついた。体験のない人にはわかってもらえない、という当事者の気持ちはよくわかる」

この言葉を聞き、シオサカは今夜の『矢野顕子と話そう会』が被災者の方々にとっても良い時間となることを確信したのです。そしてまた、矢野さんのこんな言葉にハッとさせられました。

「東日本大震災だけでなく、自分も含め、明日被災するかもしれない全ての人たちに向けて曲を作りたいと思ってる」

そうでした。
外から来た人は永遠に支援側のつもりでいますが、本当は今、誰もがこの瞬間にも被災者側になりうるのです。

矢野さんの大きな視点は、シオサカのその後の東北との関わり方を変えていきました。かわいそうな被災者を助ける善意のボランティアではなく、被災地から何があっても生き抜くためのスピリットを学び、それを世界に伝える者へと意識が変わっていったのです。

『矢野顕子と話そう会』の様子

(2012年9月6日。宮城県石巻市のライブハウス『N’s SQUARE』にて実現した『矢野顕子と話そう会』の様子)

『矢野顕子と話そう会』には、平日の夜にも関わらずたくさんの被災者とボランティア、関係者が集結しました。実際、被災者の方々に「あの日」について語ってもらうのは、とてもデリケートなことでした。中には、初めて人前で語るという人、震える手でマイクを持ち、絞り出すような声で話してくれた人もいます。悲しみ、怒り、無力感など、口調からにじむ感情は、一人ひとり、違っていました。

重く辛い体験も、人と分かち合いたい、話したい、という方がいらっしゃる一方、他者の話を聞くことで、震災以来フタをしてきた「あの日のこと」に向き合うことができた、心が軽くなった、と感想を伝えてくださる方もいて、『矢野顕子と話そう会』は無事に、幕を閉じることができました。

石巻の街を見て周る矢野さん

↑翌日も、時間が許す限り石巻の街を見て周る矢野さん

そして、翌日のお昼には、津波で6人家族中3人を亡くされた中里美幸さん、風夏さん母娘と昼食をとる機会を設けました。とりわけ、ふたりにとっては息子であり、弟であった煌牙君(こうがくん・享年4歳)の死について聞くことは、その場に居合わせたスタッフ全員が、胸を痛め、被災者の悲しみを強く心に刻むこととなりました。

お話を聞く矢野さん

↑津波で祖母と母、息子の3人を亡くした中里美幸さん(右)とその娘の風夏さん

生まれたばかりの『東北☆家族』に
まさかの「いいよ」

9月7日の夕方、矢野さんご一行とは、仙台駅でお別れ。

以降、連絡をとりあわないまま、シオサカは一方で、10年来の友人だった上海在住のイラストレーター、ワタナベ・マキコに声をかけ、2012年12月に『東北☆家族プロジェクト』を立ち上げていました。

文章だけでは伝えきれない東北の現状と魅力をキャラクターにのせ、子どもや被災地を知らない多くの人々にもわかりやすく届けたいという思いです。

もちろん、当初は矢野さんの楽曲とは別々の構想でした。しかし、ワタナベ・マキコが次々に描くユニークなキャラクター達を見るにつけ、シオサカはだんだんと、矢野さんの曲とこのキャラクター達をマッチングしたら、より強いインパクトとなり、多くのみなさんに大事なメッセージを届けられるのでないかと思い始めました。

そう。私たちのことです!

『東北☆家族』
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